浄土真宗本願寺派[転法輪山]極楽寺 |

本願寺の歴史

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本願寺の歴史

本願寺

本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山で、その所在(京都市下京区堀川通花屋町下ル)する位置から、西本願寺ともいわれている。浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に、親鸞聖人によって開創されたが、その後、民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中で、代表的な有力教団の一つとなっている。もともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展したもので、聖人亡き後は、教団の重要な地となっていた。弘長2年(1263)聖人が91歳でご往生されると、東山鳥辺野の北・大谷に石塔を建て、遺骨をおさめた。しかし、聖人の遺徳を慕う東国の門弟も多く、また聖人の末子で、最後まで聖人の身近に仕えた覚信尼さまも京都におられたので、ともに相はかって、文永9年(1272)には、大谷の地から余り遠くない吉水北の覚信尼さまの居住の地に遺骨を移し、廟堂を建てた。これが大谷廟堂である。それは、六角の堂で、聖人の影像を安置し、廟堂に面した拝堂も造営している。

その後、建治3年(1277)に、覚信尼さまは、聖人の墓所として廟堂の敷地を寄進、廟堂を守護・管理する留守職には、覚信尼さまの子孫が就任するよう定められた。しかも、覚信尼さまの孫・覚如上人は、この廟堂を本願寺と称して、真宗教団の中心たらしめようと努力された。

覚如上人の後、本願寺は、善如・綽如・巧如・存如の各上人を経て、次第に発展し、御影堂・阿弥陀堂の両堂も整ったが、室町時代中葉に8代・蓮如上人が出られるに及んで、著しく興隆することとなった。しかし、上人の教化が、比叡山の勢力圏である近江(滋賀県)の村々に広く及び、本願寺がようやく繁栄するに至って、叡山僧徒の反目を買うようになる。そして、ついに寛正6年(1465)本願寺は襲撃をうけて破壊されたのである。こうして、大谷の地を退出された上人は、近畿各地を転々とされ、やがて越前(福井県)の吉崎を拠点として北陸の諸地を布教された。この地で上人が数多く出された『御文章』でうかがえるように、民衆の日常生活に即して平易に浄土真宗の教えが説かれたため、その教えは各層各地にひろまることとなった。

次の実如・証如・顕如の三上人の時代は、戦国の争乱期にあたり、いつしか本願寺も戦国諸大名の闘争の渦中に陥って、動揺を続けた。そして、ついに天文元年(1532)山科本願寺は日蓮宗徒や細川氏らの攻撃をうけて炎上した。そこで、蓮如上人が、晩年に創建された大坂の石山坊舎に移り、ここを本寺とする。このころ本願寺は加賀(石川県)を支配下におさめ、また全国にわたって門徒を擁していたので、その社会的地位は大いに向上していた。そこで、宮廷や公家にも親近し『三十六人家集』や『伏見院百首』などの重宝を勅賜され、永禄2年(1559)には、顕如上人に寺院として最高の門跡が勅許されている。

そのころ、織田信長は、天下統一の遂行にあたって、雄大な社会的勢力に成長、西国への要路を占める石山本願寺を、無関心に看過ごすことはできなかった。そこで、元亀元年(1570)その寺地の譲渡を要求するに至り、ここに両者の間に戦いが開かれ、11年間にわたる永い闘争、いわゆる石山合戦に突入するのである。その後、天正8年(1580)正親町天皇の勅によって和議が締結され、本願寺は紀伊(和歌山県)鷺森に移り、更に和泉(大阪府)貝塚を経て、大坂天満へと転じた。しかし、天正19年(1591)には、豊臣秀吉が京都六条の現在の寺地を寄進したので、本願寺は旧縁の地へ移ることとなった。

京都本願寺の諸堂がほぼ完備した天正20年(1592)に顕如上人が急逝されたので、長男の教如上人があとを継がれた。ところが、顕如上人の譲状が、三男・准如上人あてにしたためられていたので、教如上人は隠退して北殿に住し裏方とよばれた。徳川家康が政権を握ると、教如上人は慶長7年(1602)に家康から烏丸七条に寺地を得て、ここに寺を別立された。これが大谷派本願寺で、この時から本願寺が西と東に分立したのである。

この間、慶長元年(1596)の大地震で、本願寺の諸堂が倒壊、両堂は翌年に再建された。しかし、元和3年(1617)の火災で焼失したため、良如上人は寛永13年(1636)御影堂を再建された。このころ、飛雲閣・唐門・対面所・白書院・能舞台などが、それぞれ整備されたが、その後、明暦3年(1657)に黒書院を、宝暦10年(1760)に阿弥陀堂を再建、現在の本願寺の規模が形成された。

本願寺

御影堂(左)
阿弥陀堂(右)